「インパール作戦」って、なんだか悲惨なイメージがあるけど、具体的にどんな作戦だったんだろう? 日本軍はどうしてそんな無謀とも言われる作戦を実行してしまったの? そんな疑問を持ったことはありませんか? 第二次世界大戦の中でも、特に多くの犠牲者を出したとされるこの作戦。
この記事では、インパール作戦が計画された背景から、その経過、そしてなぜ多くの人が「無謀」と評価するのか、その原因をわかりやすく解説していきます。難しい専門用語は使わず、歴史に詳しくない方でも理解できるよう、当時の状況や兵士たちの苦悩にも触れながら、インパール作戦の全体像を紐解いていきます。この記事を読めば、インパール作戦の基本的な知識や、戦争の悲劇について深く知ることができますよ。

インパール作戦、名前は聞いたことあるけど、内容はよく知らないかも…。この記事でしっかり学んでみよう!
インパール作戦とは? その背景と目的を深掘り
まずは、インパール作戦がどんな作戦だったのか、基本的なところから見ていきましょう。この作戦が計画された時代背景や、日本軍が目指した目的を知ることが、作戦の全体像を理解する第一歩になります。
第二次世界大戦下のビルマ戦線
インパール作戦は、第二次世界大戦中の1944年3月から7月にかけて、ビルマ(現在のミャンマー)とインドの国境地帯で行われた日本軍の作戦です。当時のビルマは、日本軍が占領下に置いていました。なぜこの地域が重要だったかというと、ここが中国(当時は中華民国)への重要な補給ルート、いわゆる「援蔣ルート」の一部だったからです。
連合国(主にアメリカ、イギリス)は、日本と戦う蔣介石政権を支援するため、インドからビルマを経由して大量の物資を送っていました。日本軍にとって、この援蔣ルートを遮断することは、中国戦線を有利に進める上で非常に重要な課題だったんです。

援蔣ルートとは?
日中戦争が長期化する中で、アメリカやイギリスなどが中華民国の蔣介石政権を支援するために設けた補給路のことです。当初は香港や仏領インドシナ(現在のベトナムなど)を経由するルートがありましたが、日本の勢力拡大によって次々と遮断されました。最終的に、インドからビルマ北部を経由して中国へ物資を運ぶ「ビルマルート」が主要なルートとなりました。
日本軍の狙い:インパール攻略の目的
では、なぜ日本軍はわざわざ険しい山岳地帯を越えて、インド北東部の都市インパールを目指したのでしょうか? 主な目的は以下の3つが挙げられます。
- 援蔣ルートの完全遮断: インパールは、援蔣ルート上の重要な拠点でした。ここを占領することで、連合国から中国への物資供給を断ち切り、中国軍の抵抗力を削ぐことを狙いました。
- インド国民軍 (INA) との連携: 当時、インド独立を目指すスバス・チャンドラ・ボース率いる「インド国民軍 (INA)」が、日本の支援を受けて活動していました。日本軍は、インパールを攻略することでINAと共にインドへ進攻し、インド国内での反英闘争を激化させ、イギリスのインド支配を揺るがそうと考えたのです。これは、大東亜戦争(太平洋戦争)の目的の一つである「アジアの解放」を具体化する狙いもありました。
- イギリス軍への打撃と戦局の打開: ビルマを防衛するイギリス・インド軍に先制攻撃を仕掛けて大打撃を与え、ビルマにおける日本の支配を確固たるものにすると同時に、太平洋戦線全体の戦局を有利に転換させたいという思惑もありました。
これらの目的を達成するため、日本軍はインパールとその北方に位置するコヒマの攻略を目指す、大規模な攻勢作戦を計画したのです。
作戦計画の中心人物:牟田口廉也中将
インパール作戦を強力に推進した中心人物が、第15軍司令官の牟田口廉也(むたぐち れんや)中将でした。彼は、盧溝橋事件(日中戦争の発端となった事件)の際に現場の連隊長だった人物としても知られています。牟田口中将は、この作戦の成功に強い意欲を示し、困難な条件にもかかわらず計画を推し進めました。

しかし、その計画は当初から多くの懸念材料を抱えていました。険しい山岳地帯を越えるための補給計画の甘さや、イギリス軍の戦力に対する過小評価など、作戦の実現可能性を疑問視する声も少なくなかったと言われています。

なるほど、援蔣ルートの遮断とインド独立支援が大きな目的だったんですね。でも、計画段階から不安要素があったんですね…。
インパール作戦の経過:困難な進軍と悲劇的な結末
壮大な目的を掲げて開始されたインパール作戦ですが、その現実は計画通りには進みませんでした。ここでは、作戦がどのように進み、そしてなぜ悲劇的な結末を迎えたのか、その経過を詳しく見ていきましょう。
作戦開始と初期の進撃
1944年3月8日、インパール作戦はついに開始されました。日本軍の第15軍(隷下に第15師団、第31師団、第33師団の3個師団基幹)は、ビルマを流れるチンドウィン川を渡り、険しいアラカン山脈を越えてインド領内へと進撃を開始します。
作戦に参加した兵士たちは、士気高く進軍を開始したと言われています。作戦初期には、日本軍はいくつかの拠点を攻略し、一時的にイギリス軍を後退させる場面もありました。特に、北方のコヒマ方面へ向かった第31師団は、激戦の末に一時はコヒマの一部を占領することに成功します。

補給線の崩壊:「食」と「弾」の不足
しかし、作戦が進むにつれて、深刻な問題が露呈し始めます。それは、補給の途絶でした。
インパール作戦の補給計画は、「ジンギスカン作戦」という俗称で呼ばれる、極めて楽観的なものでした。これは、食料や物資の多くを現地で調達し、さらには牛や象などの動物を使って輸送するという計画でしたが、実際にはほとんど機能しませんでした。
- 食糧の現地調達失敗: イギリス軍は日本軍の進撃路周辺の食糧を事前に処分しており、現地での調達は困難を極めました。
- 輸送手段の喪失: 補給物資を運ぶはずだった牛や象は、過酷な行軍や食糧不足、さらにはイギリス軍の攻撃によって次々と失われました。
- 長すぎる補給線: 険しい山岳地帯を越える長い補給線は、維持すること自体が困難であり、雨季の到来とともに泥沼化し、完全に麻痺してしまいました。
食糧も弾薬も届かない状況で、兵士たちは飢えと戦うことになります。「糧秣(りょうまつ:食糧のこと)なくして戦争ができるか!」という言葉は、まさにこの時の状況を表しています。多くの兵士が栄養失調や病気で次々と倒れていきました。
「ジンギスカン作戦」とは?
インパール作戦における補給計画の通称です。「ジンギスカン(モンゴル帝国の創始者)のように、食料を現地で調達し、家畜を連れて進軍すれば補給は問題ない」という発想から名付けられたと言われています。しかし、これは現地の状況や兵站(へいたん:物資の補給や管理)の重要性をあまりにも軽視した、杜撰な計画でした。
雨季の到来と地獄の撤退路
5月になると、この地域に激しい雨季が到来します。道は泥沼と化し、川は氾濫。ただでさえ困難だった移動や補給は、ほぼ不可能になりました。イギリス軍は制空権を握っており、空からの攻撃も日本軍を苦しめました。
インパール、コヒマの攻略は完全に頓挫し、前線では飢餓と病気(マラリア、赤痢など)が蔓延。戦闘による死者よりも、餓死や病死で亡くなる兵士の方がはるかに多かったと言われています。
このような絶望的な状況の中、ついに7月3日、第15軍司令官の牟田口中将は作戦の中止と撤退を命令します。しかし、撤退もまた地獄でした。食糧も薬もなく、衰弱しきった兵士たちが、泥濘と化した道を何百キロも歩いて戻らなければならなかったのです。
撤退路には、力尽きて倒れた兵士たちの遺体が延々と続き、その様子から「白骨街道」と呼ばれるようになりました。生存者の証言には、想像を絶する悲惨な状況が数多く記録されています。

作戦失敗と甚大な被害
インパール作戦は、日本軍の完全な失敗に終わりました。参加兵力約8万5千人から10万人(諸説あり)のうち、死傷者は約7万人以上、中でも死者は3万人から5万人以上(これも諸説あり)にのぼると言われています [1, 2]。特に餓死・病死者が極めて多かったのが特徴です。
この作戦の失敗は、ビルマ戦線における日本軍の敗北を決定的なものとし、後の戦局にも大きな影響を与えました。多くの有能な兵士と装備を失っただけでなく、兵士たちの士気にも深刻なダメージを与えたのです。
インパール作戦の犠牲者数については、資料によって差異が見られます。これは、戦闘による死者、餓死・病死者、行方不明者などを正確に把握することが困難であるためです。しかし、いずれにしても極めて多数の犠牲者が出たことは間違いありません。

兵士さんたちの苦しみを思うと、本当に言葉になりません…。食料も弾薬もないなんて、どれだけ心細かっただろう…。
なぜインパール作戦は失敗したのか? その原因を分析
これほどまでに悲惨な結果を招いたインパール作戦。なぜ失敗してしまったのでしょうか? その原因は一つではなく、様々な要因が複合的に絡み合っています。主な原因を整理してみましょう。
原因1:地形や気候を無視した無謀な作戦計画
まず挙げられるのが、作戦計画そのものの無謀さです。インパールへの道は、標高2,000メートル級の山々が連なる険しい山岳地帯であり、密林に覆われています。さらに、雨季になれば豪雨によって道は寸断され、河川は氾濫します。このような過酷な自然環境を、当時の日本の装備や輸送能力で克服するのは極めて困難でした。
また、イギリス軍の戦力を過小評価していた点も指摘されています。イギリス軍は十分な航空支援体制を持ち、補給路も確保していました。日本軍は、精神力や奇襲によってこれらの不利を覆せると考えていた節がありますが、現実はそれほど甘くありませんでした。
原因2:致命的だった補給計画の欠陥
失敗の最大の原因として、補給計画の杜撰さが繰り返し指摘されています [1, 3]。前述の「ジンギスカン作戦」に代表されるように、食糧や弾薬の輸送を軽視し、現地調達や人力・畜力に頼りすぎたことが致命傷となりました。
近代戦において、兵站(補給)は戦闘能力を維持するための生命線です。十分な補給なしに大規模な作戦を継続することは不可能であり、インパール作戦はこの原則を完全に無視していました。この兵站軽視の姿勢は、当時の日本軍全体に見られた傾向とも言われています。
どうしてそんなに補給を軽視してしまったの?
当時の日本軍には、「精神力があれば物量の差も克服できる」といった精神主義的な考え方が根強くあったことや、兵站を専門とする部署や人材の地位が相対的に低かったことなどが背景にあると言われています。また、短期決戦で勝利できるという楽観的な見通しも、補給計画の甘さにつながった可能性があります。
原因3:指揮系統の混乱と指導者の責任
作戦を主導した第15軍司令官・牟田口廉也中将の指導力や判断にも問題があったと指摘されています。彼は作戦の困難さを指摘する部下の意見に耳を貸さず、精神論を振りかざして作戦を強行したと言われています [4]。
また、作戦遂行中も、現場の実情を無視した指示を出し続け、撤退の判断も遅れました。さらに、隷下の師団長たちとの間にも深刻な対立があり、指揮系統は混乱していました。例えば、第31師団長の佐藤幸徳中将は、補給なき作戦継続は不可能として、軍司令部の命令を待たずに独断で撤退を開始するという事態も起きています(これは後に抗命として更迭される原因となりました)。
上層部の計画立案能力の欠如、現場との意思疎通不足、そして指導者の固執や責任回避といった組織的な問題も、失敗の大きな要因となったのです。
原因4:イギリス軍の的確な対応と航空優勢
一方で、イギリス軍の対応が的確だったことも見逃せません。イギリス軍は、日本軍の侵攻を予測し、インパール周辺に強固な防御陣地を築いていました。また、航空優勢を確保しており、空からの偵察や補給、そして日本軍への攻撃を効果的に行いました。
特に、インパールやコヒマで包囲された部隊に対して、大量の物資を空輸することで補給を維持し続けたことは、勝敗を分ける大きな要因となりました。日本軍が補給に苦しむ中、イギリス軍は比較的安定した状態で防御に専念できたのです。


なるほど…。計画の甘さだけじゃなくて、補給の軽視、指揮官の問題、そして相手の的確な対応…いろんな要因が重なって、あの悲劇が起きてしまったんですね。
まとめ
インパール作戦について、その背景、経過、そして失敗の原因を見てきました。最後に、この記事の内容をまとめます。
- インパール作戦は、第二次世界大戦中の1944年にビルマ・インド国境で行われた日本軍の大規模な攻勢作戦でした。
- 主な目的は、連合国の中国への補給路(援蔣ルート)遮断、インド国民軍との連携によるインド進攻、イギリス軍への打撃でした。
- 作戦は、険しい地形と雨季、そして致命的な補給不足により、当初から困難を極めました。
- 食糧・弾薬が尽き、飢餓と病気が蔓延。多くの兵士が戦闘ではなく、餓えや病気で命を落としました。
- 1944年7月に作戦は中止され撤退が命じられましたが、撤退路も悲惨を極め、「白骨街道」と呼ばれるほどの多くの犠牲者を出しました。
- 失敗の原因は、無謀な作戦計画、補給の完全な軽視、指揮系統の混乱、指導者の判断ミス、イギリス軍の的確な対応などが複合的に絡み合っています。
- この作戦の失敗は、ビルマ戦線における日本の敗北を決定づけ、多大な人的損失をもたらしました。
インパール作戦は、戦争における精神主義の限界や、兵站(補給)の重要性を私たちに教えてくれます。そして何よりも、多くの尊い命が失われた悲劇として、決して忘れてはならない歴史の一ページと言えるでしょう。